洗顔という名の迷宮

 
 
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サッポー先生

サッポーです。

今回は久しぶりに洗顔を取り上げてみました。

  • 『洗顔はスキンケアの基本である』
  • 『スキンケアは洗顔に始まり、洗顔に終わる』
  • 『洗顔は美肌の基本』etc...
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洗顔の大切さを説明した様々な案内がされています。
サッポーも上のような表現に異議はありません。
その通りだと思っています。

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洗顔……いつも通りしておけば、ほとんど気にしないでよいケアの一つに過ぎない人もあれば、こうでもない、ああでもないと工夫に工夫を重ねて良い洗顔を目指そうとする人もいます。

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“洗う”という行為は簡単なはずなのに、どうも奥が深いというか、よく判らないと言うか……極めようとすればするほどに間違った肌洗浄になってしまっている方が実に多い!
……これも事実です。

もしかすると、あまりに単純だから私達がわざと迷路を構築し、そこに好んで迷い込んでいるような気さえします。
……はて?さて?

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今回はいつもと違った視点で、洗顔を見ていきたいと思います。

 
 

洗顔の目的ってなんだろう?

 
 
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洗顔の目的について考えたいと思います。

≪洗顔の目的≫

  1. 汚れを落とし、きれいに見せる
  2. 清潔にして、肌の健康を維持する

サッポーは上に書いた程度の表現で、洗顔という行為の目的をまとめるのが良いだろうと思っています。

もっと詳細に、例えば次のような洗顔の目的なら……どうなるでしょう。

  • 汚れとは、肌についたスキンケア化粧品やメイク料、大気の汚れ、皮脂・汗、洗顔料の油分や界面活性剤、古い角質・角栓、毛穴の奥の汚れ、雑菌・カビ……などで、洗顔の目的はこれらを取り除くことです。

いかがですか?
何も問題はなさそうですね。
ちょっと詳しく言い換えただけのようにも見えます。
ほとんどの方がすんなりと受け入れることが出来、洗顔はそうあるべきだと思われるのではないでしょうか。

しかし、間違っていない目的をここまで細かく言ってしまうことが、逆に洗顔というケアに迷路を作っているのではないのか?……とサッポーは想像しています。
なぜなら、「そうあるべきだ」の洗顔が、「そうあらねばならない!」洗顔としての思いこみに繋がっているように思うからです。

「この方が、具体的で、判りやすくて良い」という指摘を受けそうですが、それは目的の理想形としては良いのかもしれません。
しかし、実際にこの様な洗顔の目的の一部、または全てを果たそうとすれば、肌を犠牲にした汚れ落としになってしまう現実を知らねばなりません。

それは洗浄の程度、目的の達成度の問題といえるのでしょう。
例えば衣類の洗濯であれば、私達は加減というものを知っています。
なかなか落ちない汚れを何とか落とそうと努力し過ぎると、衣類そのものを傷めることは経験しているからです。
落ちない汚れは仕方ないと諦めます。
汚れ落としよりも、衣類の方が大切だと判断するからです。

角質・角質層は死細胞で、それらはまもなく垢として剥がれていくものですが、生きた表皮細胞層に直接繋がり、肌を守っている存在です。
この角質についた汚れを落とす完成度を高めようとすれば、角質という肌を守る存在を少なからず犠牲にし、一緒に洗い流す洗浄になってゆくという事を知る必要があります。

つまり、肌を大切にすることよりも、汚れを落とすことの方がいつの間にか大切になってしまうのです。
そのようなところはありませんでしたか?

ここでもう一度、サッポーが推奨します「洗顔の目的」を確認しておきましょう。

≪洗顔の目的≫

  1. 汚れを落とし、きれいに見せる
  2. 清潔にして、肌の健康を維持する

抽象的で、具体性に欠けますが、この程度のイメージで洗顔を捉えておいた方が、健康で美しい肌を目指すには適切だということですね。
洗浄剤の能力と特質、肌はターンオーバーにより常に作り替えられていること、この様な点を考慮する中に、適切な洗顔の姿が明確になってまいります。
美肌が育つ洗顔ですね。

 
 
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「あら、だったらそんなに肌の汚れなどは取り除かなくてもいいの?!」
……こんな声が聞こえてきそうです。

肌の汚れは取り除きたいですね。
でも洗い過ぎが衣服を傷めるように、洗い過ぎや下手な洗顔は、肌を傷めるものでもあるようです。
肌が傷み不健康になってしまうと、美肌は望めません。

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では、洗顔の“功”と“罪”、両極端を知ることで適切な洗顔をイメージできるようにしましょう。

 
 

どうして洗顔をきっかけにした肌トラブルが多いのか?

 
 

「洗顔そのものに“功”と“罪”がある?」

「洗顔料に良いものと悪いものがあるのは知ってたけど……?」

「洗顔料も肌のタイプに合わせて選ばないと失敗すると言うこと?」

「洗顔の方法に問題があるんじゃないの?」

「洗顔したあとの感覚や感触を大切にしていたら、失敗はない!?」

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ハイ、はてさて、適切な洗顔、正しい洗顔とはどのようなことを言うのでしょうね。
肌が健康に、そして美しくなる洗顔をしようと思い、どうしたらよいかを考えようとすると、なぜかキーとなるポイントがどこにあるのか、よく判らなくなってきます。

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ところが、不適切な洗顔が原因で、肌を不健康にしたり、皮脂詰まり、ニキビの増加、毛穴の目立ち、角栓の多発、過敏さの増大、シミのでやすさ……と様々なトラブルの原因になっているとの話を聞きます。

でも、何がどのように不適切なのか、調べるとよく判らなくなってしまう。
それも一生懸命、言われたとおりにやっているのに、成果が上がらない。
上がらないどころかますます悪くなっているような……!?

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サッポーは、洗顔がこのような迷宮を作っているのは、洗顔の目的とされる次の二つのイメージではないかと考えます。

≪洗顔の目的(のイメージ)≫

  1. 化粧や汚れ、肌についた汚れはきれいさっぱり落とさないと、肌にとって好ましくない。
  2. 刺激のない、肌に優しい洗顔が出来、洗い上がりがしっとり・さっぱりしている。つっぱったりしない洗顔料。
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このイメージには間違いなどありません。
でも、このイメージが“目的”になってしまうと、どうしたことか、間違った洗顔に知らず知らず導かれていくところがあります。

すると、いつしか、トラブルに巻き込まれていることに気づく……この様なパターンがきわめて多く見られます。
洗顔が原因であるかどうかさえ巻き込まれた本人にとっては定かではありません。

 
 

洗顔の“功”と“罪”

 
 
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洗顔の“功”と“罪”を二つの視点から、その両極端を見ていくことで、どのような問題が起きているのかを浮き上がらせて行くことにします。

▼ 汚れを落とす=洗浄そのもの……の功と罪

肌に好ましくないバイ菌やウイルス、見映えを悪くしている汚れ、酸化した皮脂や油脂、これらを定期的に肌から取り除くことは、肌の健康上も、見映え上も必要なことです。
この様な汚れを取り除く洗浄の必要性を否定する人はいません。
これが洗顔の“功”です。

しかしどんなに優れた洗浄剤も、汚れとは何かを知っているわけではありません。
また知っていたとしても、汚れの種類を選択して汚れを落としてくれるものでもありません。
洗浄剤にとって、肌そのものも汚れと同類の物質にすぎないわけです。
この肌そのものを洗い流していくところが洗顔の“罪”となります。

よりきれいに汚れを落とそうとすれば、肌そのものを洗い流す結果に繋がりやすいと言うことです。
肌そのものとは、死細胞の集まりである角質の層です。

ところがこの角質達は、傷んでいたり、未熟な育ちのものは見映えも悪く、いかにも汚れて見える姿をしています。
しかし大切にしたい、働いている角質達です。
こういうのを不都合な真実というのでしょうか?

つまり、

  1. 汚れを落とす能力はほどほどでよい
  2. 多少汚れが残っていても、肌を洗い落とす弊害より好ましい

というところが、肌の健康と、(今日の美肌は諦めても)明日の美肌を目指すには妥当な加減か……妥協すべきところとなります。

▼ 肌に優しい洗顔……の功と罪

洗い上がりが、しっとり・さっぱりしていて、つっぱることのない洗顔があれば、それは確かに肌に優しい洗顔といえます。
既に過敏さが時々現れるような肌に、その優しさは他に代え難い価値があります。

洗顔時の刺激は尾を引くことが時々あるからです。
なかなか引かない赤みを作ったり、時にはピリピリとした刺激を感じるような肌になっている時があり、肌の過剰な反応を呼び込むことがあります。
これはぜひとも避けたい洗顔の“罪”となる部分です。

刺激を伴わない、つっぱり感のない洗い上がりの優しさは、過敏な肌にとっては大いなる福音で“功”に違いありません。

しかし、この優しさが明日の肌を犠牲にするような、過敏な肌に導く性質を持つ優しさであったらどうでしょうか?

洗浄剤には界面活性剤が使用され、洗い上がりの肌にピッタリと界面活性剤が付くことにより、しばらくの間、保湿性能を発揮してくれるのです。
これが優しさの正体です。
その場は優しいが肌に残ることにより、次の洗顔時に、角質層を剥がれやすくするように働きます。
この働きが、作られる角質の未熟化を促進するものになりがちなため、次第につっぱる肌、過敏な肌へと導いていきます。

サッポーは肌洗浄に界面活性能力が消えてしまう石けんをお勧めしています。
明日の肌の育ちを保証するところは“功”ですが、既につっぱり感の強い肌や、過敏さを持つ肌には、石けんのアルカリ性の刺激が肌に過敏・過剰な反応を引き起こすケースが少なからずあります。
“罪”の部分です。

界面活性剤による肌の洗浄法は大別して石けんによる洗浄と、石けん以外の界面活性剤しかないのです。

はて、さて、どのような洗顔を選べばよいのでしょう?
何れを選んでも、“功”と“罪”を同時に持つというジレンマに陥ってしまいます。
どうしたものか?
サッポーの結論はこうです。

  1. 明日の肌が育つ前提は崩したくない
  2. 肌の過敏・過剰な反応は避けたい

この二つを満足させると、サッポーの言う、美肌が育つケア、健康が育つスキンケアになり得るわけです。
でも、この結論は必要条件を示してはいるが、方法論としての答えにはなっていません。

▼ 洗顔の“罪”の部分をなくす方法論

  1. 肌の洗浄は石けんを基本にする
  2. 肌が過敏な時は石けん洗顔はせず、すすぎ洗顔だけにする

どうでしょうか?
これなら、肌が育つ前提は崩さずに、過敏な時も最低限の洗浄だけは保証されます。
これでマイナスが無くなります。

さらに次の方法を加えると、洗顔の完成度を底上げすることが出来ます。

  1. 肌が過敏な時は、洗浄能力の無いサッポーのクレンジングクリームを塗りのばし(軽いマッサージ)、すすぎ洗顔で洗い流す

洗浄能力はなくても、クリームが肌の皮脂・油脂の酸化物になじみ、すすぎ落とすだけで、それらの持つマイナス要素を軽減してくれます。汚れはきれいさっぱり落ちないかもしれないが、肌にとって本当の怖い汚れは軽減されるというわけです。

育つ力を発揮し続けることが、肌にとって最大の健康法であり、美肌作りの源泉になっています。

 
 
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いかがでしょう?
細かい枝葉は省略して、幹だけを取り上げましたが、よき洗顔のイメージが伝われば幸いです。

 
 

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