サッポーの  視点
洗顔の“功”と“罪”を二つの視点から、その両極端を見ていくことで、どのような問題が起きているのかを浮き上がらせて行くことにします。
▼ 汚れを落とす=洗浄そのもの……の功と罪
肌に好ましくないバイ菌やウイルス、見映えを悪くしている汚れ、酸化した皮脂や油脂、これらを定期的に肌から取り除くことは、肌の健康上も、見映え上も必要なことです。
この様な汚れを取り除く洗浄の必要性を否定する人はいません。
これが洗顔の“功”です。
しかしどんなに優れた洗浄剤も、汚れとは何かを知っているわけではありません。
また知っていたとしても、汚れの種類を選択して汚れを落としてくれるものでもありません。
洗浄剤にとって、肌そのものも汚れと同類の物質にすぎないわけです。
この肌そのものを洗い流していくところが洗顔の“罪”となります。
よりきれいに汚れを落とそうとすれば、肌そのものを洗い流す結果に繋がりやすいと言うことです。
肌そのものとは、死細胞の集まりである角質の層です。
ところがこの角質達は、傷んでいたり、未熟な育ちのものは見映えも悪く、いかにも汚れて見える姿をしています。
しかし大切にしたい、働いている角質達です。
こういうのを不都合な真実というのでしょうか?
つまり、
- 汚れを落とす能力はほどほどでよい
- 多少汚れが残っていても、肌を洗い落とす弊害より好ましい
というところが、肌の健康と、(今日の美肌は諦めても)明日の美肌を目指すには妥当な加減か……妥協すべきところとなります。
▼ 肌に優しい洗顔……の功と罪
洗い上がりが、しっとり・さっぱりしていて、つっぱることのない洗顔があれば、それは確かに肌に優しい洗顔といえます。
既に過敏さが時々現れるような肌に、その優しさは他に代え難い価値があります。
洗顔時の刺激は尾を引くことが時々あるからです。
なかなか引かない赤みを作ったり、時にはピリピリとした刺激を感じるような肌になっている時があり、肌の過剰な反応を呼び込むことがあります。
これはぜひとも避けたい洗顔の“罪”となる部分です。
刺激を伴わない、つっぱり感のない洗い上がりの優しさは、過敏な肌にとっては大いなる福音で“功”に違いありません。
しかし、この優しさが明日の肌を犠牲にするような、過敏な肌に導く性質を持つ優しさであったらどうでしょうか?
洗浄剤には界面活性剤が使用され、洗い上がりの肌にピッタリと界面活性剤が付くことにより、しばらくの間、保湿性能を発揮してくれるのです。
これが優しさの正体です。
その場は優しいが肌に残ることにより、次の洗顔時に、角質層を剥がれやすくするように働きます。
この働きが、作られる角質の未熟化を促進するものになりがちなため、次第につっぱる肌、過敏な肌へと導いていきます。
サッポーは肌洗浄に界面活性能力が消えてしまう石けんをお勧めしています。
明日の肌の育ちを保証するところは“功”ですが、既につっぱり感の強い肌や、過敏さを持つ肌には、石けんのアルカリ性の刺激が肌に過敏・過剰な反応を引き起こすケースが少なからずあります。
“罪”の部分です。
界面活性剤による肌の洗浄法は大別して石けんによる洗浄と、石けん以外の界面活性剤しかないのです。
はて、さて、どのような洗顔を選べばよいのでしょう?
何れを選んでも、“功”と“罪”を同時に持つというジレンマに陥ってしまいます。
どうしたものか?
サッポーの結論はこうです。
- 明日の肌が育つ前提は崩したくない
- 肌の過敏・過剰な反応は避けたい
この二つを満足させると、サッポーの言う、美肌が育つケア、健康が育つスキンケアになり得るわけです。
でも、この結論は必要条件を示してはいるが、方法論としての答えにはなっていません。
▼ 洗顔の“罪”の部分をなくす方法論
- 肌の洗浄は石けんを基本にする
- 肌が過敏な時は石けん洗顔はせず、すすぎ洗顔だけにする
どうでしょうか?
これなら、肌が育つ前提は崩さずに、過敏な時も最低限の洗浄だけは保証されます。
これでマイナスが無くなります。
さらに次の方法を加えると、洗顔の完成度を底上げすることが出来ます。
- 肌が過敏な時は、洗浄能力の無いサッポーのクレンジングクリームを塗りのばし(軽いマッサージ)、すすぎ洗顔で洗い流す
洗浄能力はなくても、クリームが肌の皮脂・油脂の酸化物になじみ、すすぎ落とすだけで、それらの持つマイナス要素を軽減してくれます。汚れはきれいさっぱり落ちないかもしれないが、肌にとって本当の怖い汚れは軽減されるというわけです。
育つ力を発揮し続けることが、肌にとって最大の健康法であり、美肌作りの源泉になっています。
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